今日は休日でした。
天気も良かったのですが、自分はこの平日の休日というのがどうも苦手で、結局家から一歩も出ず、だらだらと過ごしてしまいました。
ベッドがあまりにも寝心地が良いため寝たり起きたり…。
夕方、ケアマネさんから電話、親父のほうですが、明日床屋さんが入ります、との連絡。
そして間もなく今度は親父から「ベッドの下に入れ歯を落とした」など。
仕方なく夜遅くに帰ることに。今晩は向こうに泊まりの予定です。
「昭和史発掘5」(松本清張著・文春文庫)の「軍閥の暗闘」までを読了しました。
「相沢事件」と「相沢公判」の間にはさまれたこの章では、二・二六事件とはいったい何であったか、それを伺わせているような印象です。
統制派と皇道派の派閥争いとして語られることの多いこの事件が、その根底にあったものは今日で言うところの「格差問題」であったという…。
この章の最初は、天皇機関説や西田税などの記述からはじまりますが、いわゆる「天保銭組」と「無天組」(陸軍大学卒と、そうではない一般将校の組)の違い、嫉妬、偏見、差別…。これらの不満が、やがて二・二六事件となって噴出したのだ、という内容です。
天保銭組とは? (航空軍事用語辞典)
http://mmsdf.sakura.ne.jp/public/glossary/pukiwiki.php?%C5%B7%CA%DD%C1%AC%C1%C8
作中、「三河日記」(大久保彦左衛門)からの記述があります。
「…たとえば本多正信などは戦場では何一つ働くではなく、後方の家康の本陣にいて差図をしていただけで三万石の大名となった。これらは甚だ不合理である。…」
例えるならば、本多正信は幕僚、彦左衛門は隊付将校であり平武士。
これが、当時の陸軍内にそのままあって、
(本文より)
『青年将校が「昭和維新」を目指す「維新」のなかには、こうした差別の不合理を破壊する意識があったことは確かであろう。右の「不慮ノ事象ノ勃発」が二・二六事件の姿をかりて天保銭組へのクーデターとなったともいえよう。だから、陸軍当局でもそのことに気がつき、二・二六事件後は天保銭制度は廃止している。』
(引用ここまで)
そして、東京憲兵隊では陸軍内の「要注意将校」たちの思想調査を実施し、内偵、そのリストに「福山 相沢三郎中佐」の名前があったという記述。
えーと、昨晩は散歩、街歩きの晩となりました。
銀座日産到着。
近藤レーシングのマシン、ベースはGT-Rですね。
GT-Rも誇らし気に陳列されていましたが、自分は一目散に2階へ。
渋い240Zがありました。
回転しています。
ユニコーンの曲「ZG」がかかっていました。
「Fairlady 240Z」のエンブレムが誇らし気です。
座席シートで製作した椅子があり、座っても良いとの事なので座らせてもらいました。
当時の日本人の体型がやや小柄だったことを考えると、やや小ぶりな感じがしました。
脚の部分は「Z」形にデザインされていてお値段12万。
満足して、今度は築地方向へ。
歩道橋の上より晴海通り側を臨む
えーと、「牛丼革命」吉野家1号店跡を見るつもりでしたが、通り過ぎてしまいました。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E5%AE%B6%E4%B8%80%E5%8F%B7%E5%BA%97
勝どき橋。
疲れていた自分は、きっと水辺に立ちたかったのだと思います。
河岸の端に立って眺めます。
イルミネーション点灯。
屋形船が通過。
橋を渡り、さらに晴海方向へ。
この辺は、もうちょっと撮りたいところですが、歩道が細いので今回はこれだけです。
渡りきった所にデニーズがありました。
この建物は何だろう?
さらに歩き歩いて、気がつくと行き過ぎて晴海トリトンスクエアまで来てしまいました。
戻って右、清澄通りを歩いて月島。
月島駅前。
昔とは全然違う風景がそこに!
昔は、まっ暗で寂しい感じがした場所。
うーん…。変わったなぁ。いや、変わったのは街のほうで建物は変わらず。
どこかの阿呆が売らなければ1戸所有していたのに。
清澄通りをさらに行くと、門前仲町へ出るのですが、もと来た道を戻り月島から乗って帰りました。
今度は、佃島の端のほうを歩いたり、隅田川の橋イルミを全制覇したいと思います。